2つの記事を紹介し、自分の意見を述べたいと思います。
病腎移植「現時点で妥当性ない」 4学会が非難声明 |健康|生活・健康|Sankei WEB:
宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)の万波誠医師(66)らによる病腎移植について、日本移植学会など4学会は31日、「実験的な医療が閉鎖的な環境で行われていたことは、厳しく非難されるべきだ」とする声明を出した。また、病腎移植の医学的可能性については、「現時点では妥当性がない」とする統一見解を出した。
共同声明に参加したのは、日本移植学会、日本透析医学会、日本泌尿器科学会、日本臨床腎移植学会の4学会。日本腎臓学会は理事会の承認が得られ次第、声明に加わる予定。日本病理学会は声明に参加しなかった。
まず疑問なのは、なぜ『共同声明』なのか? それぞれの学会毎に違った見解があっても良いんじゃないか? ということ。すでにこの時点で、学術的よりも、政治的な匂いがぷんぷんします。ドナーの確保に苦労する状況からすれば、日本移植学会や日本臨床腎移植学会は積極的に道を模索しても良さそうなもの。日本透析医学会は、まさか透析患者が減ると困るとか言いませんよね? 日本腎臓学会に至っては後から「声明に加わる」って・・・足並みを揃えられないなら、なぜ単独で声明を出さない? 群れなければ意見を言えないのか? 寄らば大樹の陰というか、事なかれ主義というか、臆病な理事会承認を決議する様は哀れとさえ思えます。
何かの根拠に基づいて「原則禁止」を貫くなら、それはそれで納得ができます。だとしたら、「現時点では」なんて妥協すべきではなかった。「現時点では」という但し書きを付けたのなら、「じゃあ何時なら?」「どのような方法なら?」妥当といえるのか、発表すべきではないのか。指針をまとめるには時間が足りなかったのなら、せめて指針作りへの取り組みとか始めるべきではないのか。そういう取り組みをせずに「現時点では」とは、一時しのぎの言い逃れに等しい。
声明では批難に重点が置かれているようですが。批難だけならテレビの芸能人でも出来ます。学会の方々も同じ医者なら、病気腎移植以外に自分達ならどんな方法で患者に貢献できるのか?も考えるべき。むしろ、これら学会の方々の治療では不十分だったからこそ病気腎移植という方法が生まれた訳で、自ら反省すべき点が多々あると恥じるべき。
さて。日本病理学会が共同声明に参加しなかった背景?か、どうかは分かりませんが。次の記事を紹介します。
病腎移植の芽「残したい…」 病理医が「良心の手紙」|話題|社会|Sankei WEB:
堤教授は、宇和島徳洲会病院の調査委員会が病腎移植症例の検証のため関係各学会などに派遣を受けた専門委員会(6人)に参加。昨年12月からカルテ閲覧や聞き取りなどの調査を進めてきた。
(中略)
「万波医師の患者に向かう姿勢に深い共感を持っております。『すごい人がいる』が私の実感です。彼は患者に寄り添っています。よほどの自信と信頼がなければできないことです」
(中略)
堤教授は専門委の討議の場でも、こうした考えを力説した。だが、報告書には盛り込まれず、翌日の新聞では「全員一致で全症例が否定された」とゆがめて報じられた。
「びっくりしました。一体どうなっているのでしょう。私の認識と随分違うからです。学会とは融通のきかないものですね。それに輪をかけてマスコミはひどい」
関係学会による病腎移植「原則禁止」の統一見解に向けた根回しが進む中で、学会の会合が開かれるたび、「万波医師がB型肝炎感染者の腎臓を移植した」などと、事実と異なる情報が流布されたことに不快感を示している。
(中略)
「初めから結論ありきという雰囲気の検証作業だった」と振り返る。
事実をゆがめて報告書を作成する事/情報を流布する事に、堤教授以外の5人は良心の呵責を感じなかったんでしょうか? もはや医師である以前に、人として失格だと思います。こんな人達がやってる「学会」に、存在意味なんてあるんでしょうか?(余談ですが。捏造を繰り返すマスコミにも同じ事が言えます)
専門委は万波医師に、質問に答える以外は発言を許さず、「教科書にない」「記録がない」などの理由で主張を退けた。
もうね、これを読んだら呆れました。
初めての事をするんだから、記録が無いのは当たり前。それは主張を退ける理由にならない。
ビルロードが胃切除をする時に誰か教えてくれたのか? 華岡清州が全身麻酔の手術をする時に教科書を見ていたのか? エドワード・ジェンナーが種痘を開発した時に(以下略
これら先人の苦労、努力、挑戦があったからこそ、現在の医療がある。それを忘れて、現在の医療が「当たり前」で、これ以上の挑戦は不要だというなら、専門委の驕りも甚だしい。そして、こんな人達が学会のトップにのさばっているとしたら、これ以上の医療の進歩は望めません。
余談ですが。Wikipediaのエドワード・ジェンナーで、こんな記述を見付けました。
ジェンナーは1798年にこれを発表した。その後、種痘法はヨーロッパ中にひろまり1802年、イギリス議会より賞金が贈られたが医学界はこの名誉をなかなか認めなかった。
新しいものを認めないのは、昔からの伝統なのかもしれません。
では「医学の進歩の為なら、どんな実験的な医療も許されるか?」というと、それは違います。ここで、最初の声明に戻りましょう。
「実験的な医療が閉鎖的な環境で行われていたことは、厳しく非難されるべきだ」
この声明自体は妥当だと思います。スタンダードで無い事を内密で行うのは、何かやましい事があるからだと思われても仕方ありません。ただ、事前に公表すると学会に妨害されて何も出来なくなる可能性はあります。せめて後から公開して十分な検証が出来るように、カルテやプロトコルの詳細な記録は必要でした。適用範囲を文章化し、院内の倫理委員会に意見を求めておく、賛同者を募っておく根回しもしてあると良かったでしょう。
また今の時代、インフォームド・コンセントと説明にまつわる書類は必要です。紙だけのうわべの同意書よりも、医者に対する全幅の信頼の方が重要なのは言うまでもありませんが。訴訟時代の今だから、建前としての書類も必要なのです。
そして一番重要なのは、医者の興味の為に患者に不利益をもたらすのは許されない、という事。患者さんの利益が最優先です。ただ、医者は神様ではありません。最初から何でも100%の成功率を求められても無理です。人間の限られた能力の中で、優先すべき物を見失わず、貫く姿勢が必要です。
万波医師の場合、おそらく患者さんの為を思う気持ちばかりが強く、その他の配慮が足りなかったのでしょう。「結果が全て」という発想は、外科医の特徴かもしれません。
病気腎移植に限らず、これから新しい医療に挑戦する人達には様々な配慮が求められるってことです。ただ、外科医として優れている人が、事務的・研究的・政治的な配慮にも優れているとは限りません。そこで倫理委員会が、是非を決めるだけでなく、積極的に外科医をサポートする体制をとれないものでしょうか。学会との折衝、患者との同意を取り持つ『コーディネーター』と機能しても良い。学会は、各地・各方面の知恵を集約し、評価した上で、標準化したものを再配分する。そうして活動してこそ、形骸化した学会の復権に繋がると思う。
「誰に責任を取らせるかを決めるだけの倫理委員会」「禁止しかできない無能な学会」「肩書きの為だけの学会」は存在悪であり不要です。
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